今回は最近小説を書くときになんとなく考えてハマってる概念『三人称壁視点』についてです。ちゃんとした結論はないのでだらだらと書いていきます。
まず、どういったところから思いついたかと言えば映画『リズと青い鳥』です。この映画を見た人たちの感想として机や壁になるという表現が広く使われています。
「リズと青い鳥 壁 机」でTwitterを検索した結果

どこからこんなことになったのか、今、ちょっとググってみると山田監督の公開前インタビューで発端らしきものを見つけました。というか見出しがもうほぼそれです。
「椅子や机の視点で」 「リズと―」の山田監督 2018/04/17 20:44の記事(公開3日前)

高校の吹奏楽部を舞台に、少女2人のみずみずしい青春を切り取ったアニメ映画「リズと青い鳥」の公開に合わせ、山田尚子監督が「校内にある椅子や机の視点で、彼女たちを見つめているような映画です」と語った。

ただこのときは"椅子や机の視点"のようです。さらに公開当日の記事で山田監督のインタビューとして以下のように書かれています。
リズと青い鳥:「少女たちのため息を描く」 山田尚子監督がこだわり抜いた表現 2018/04/21の記事(公開当日)
山田監督は「この線引きを大事にしたかった。学校パートは、学校を容器に見立てて、壁や椅子、廊下がみぞれと希美の行方を固唾(かたず)をのんで見守っているような音楽世界」とイメージを語る。
山田監督は「みぞれと希美が楽しそうにしていたら、周りの音も楽しそうな雰囲気で、雲行きが怪しくなったら、周囲の廊下や壁が『どうしたの?』とハラハラしているようなイメージなんです。ちょっと可愛いですよね」と笑顔で語る。

この辺りで「壁」が「見守る」話が出てきます。

そうしてさらに公開当日の公式Twitterでこんなアンケートがありました。


はい、決着! 公開当日から一週間の誰に感情移入したかの公式アンケートで「壁とか机とか」が主人公ふたりを抑えて勝利を収めました。主人公ふたりを合計しても拮抗するレベルです。こうして映画『リズと青い鳥』は机とか壁とかに感情移入して見る映画という地位を確固たるものにしたわけです。

さて小説の話に戻りましょう。
このような映画『リズと青い鳥』を見て机や壁になったわたしは、「こんな表現を小説でやったらどうなるだろうな」と思ったわけです。「こんな小説を書きたいな」と思ったわけです。ここからが茨の道でした。2年が経過した今も解決できたわけではないので、そのまま茨の道で泥沼です。この記事はとりあえず今まで進んできた茨の道の途中経過をメモっておこうかというものです。

最初は『リズと青い鳥』っぽい小説と頭の中で呼んでいましたが、『リズと青い鳥』っぽいにもいろいろあります。女子高校生ふたりの関係性であるとか、閉じられた学校という場であるとか、才能のぶつかりあいであるとか。ただ、その中で、読む人が壁になる部分のみを言葉で言い表すために「三人称壁視点」という言葉がいつのまにか頭に浮かんでいました。「三人称神視点」というのは以前からそれなりに広く使われていますので、その「かみ」を「かべ」にしたら語感がいいなという程度の理由です。ググっても出てこないので今までそんな言葉はなかったようです。

ただ「三人称客観視点」というものはあります。
よくある「三人称視点」では、「Aさん〜した。〜と思った。」などで、Aさんが見たシーンしか書かないものです(ミステリーなどに多いですね。章によってキャラが変わる多元視点などもあります)。「三人称神視点」では、Aさんの考えもBさんの考えも、誰が見たシーンも誰も見てないシーンも神様なのでなんでも自由にわかるような書き方をします(こちらは戦記ものなどに多いらしいです)。
では「三人称客観視点」はというと、思考(やモノローグ)は誰のものも書きません。ただ神視点のように誰が見たシーン、誰も見ていないシーンなども書けます。こういうものらしいです。よくある「三人称視点」から一部を削り、ただ神のような視点も持つというのが客観視点なのでしょうか。

「三人称客観視点」の例としてはヘミングウェイの『殺し屋』があるそうです。読んでみるとたしかに思考は書いてません。じゃあこれで解決かというとまだちょっと違う気がします。

「三人称客観視点」 = 「三人称壁視点」ではなく、「三人称客観視点」⊃ 「三人称壁視点」という気がします。含まれているもの、亜種というような感じです。

ですので、ここからは「三人称客観視点」を参考にしつつ、「三人称壁視点」としての狙いや考え方の仮説を書いていきます。

1. モノローグ(思考、感情)を書かないゆえに感情を強く感じる
「三人称客観視点」ではモノローグを書きません。当初の目標である『リズと青い鳥』もモノローグは基本的にありません(ないと断言していいレベルだと思っていますが一部、作中作のセリフを借りた表現や背を向けているセリフが発せられたものか心中かは不明なので基本的にとしておきます)。
よくある小説では視点を持ったキャラクターの心情が地の文で「〜思った」、「うれしい」、「泣きそうになるのをぐっと我慢した」など書かれています。さらに視点を持っていないキャラクターについても「〜と思ったようだ」、「うれしそうな顔をしている」、「泣きそうだった。でも我慢しているように見える」などで心情を書くことができます。
書かれているということはわかりやすいです。正しく受け取れます(視点を持っていないキャラについてはひっかけの可能性もありますが)。
では、心情が書かれていなければ、キャラは何も考えていないのでしょうか? そんなことは当然ありません。フィクションのキャラクターといえどその世界で生きているからにはなにか考えてそこに存在しています。つまり、「ここにいる、心情は書かれていないけれど存在しているキャラクターはなにを考えているのか?」これが読者に委ねられます。セリフや心情ではない動作などの記述(震えている、頬があからんだ、手を背後にまわした)などから考えることになります。

読者が自分で考えるということは強く印象に残るのではないか? というのが三人称壁視点の仮説です。

本当にそんなことがあるのかというのは確かではありませんが、絵画についての本に以下のようなことが書いてありました。ここでは現代美術や抽象画について書かれています。抽象画わかりますか? 「こんなの小学生でも描けるじゃん」、「こんなインクをぶちまけただけの絵がなんで高いの?」的ことを言われる絵です。わたしはわりと好きです。印象派などの絵と比べてあまり展覧会とかない感じですが……。

なぜ脳はアートがわかるのか 現代美術史から学ぶ脳科学入門 からの引用です。

新しきものの同化、すなわちイメージの創造的な再構築の一環としてのトップダウン処理の動員が、本質的に鑑賞者に快をもたらす理由は、一般にそれによって創造的な自己が刺激され、ある種の抽象芸術作品を前にしてポジティブな経験がもたらされるから


それに対し抽象画は、あいまいさを解消することが第一の仕事であるボトムアップ処理にはそれほど依存しておらず、私たちの想像力、つまり過去における個人的経験や、他の芸術作品との出会いをもとにしたトップダウンの関連づけに強く依拠しているように


抽象画では、おのおのの構成要素は対象となる物体の視覚的な複製としてではなく、物体を概念化するための参照、あるいは手がかりとして組み込まれる。抽象画家は自分が見ている世界を描くにあたり、遠近法や、対象を全体としてとらえるような描画を除去することでボトムアップ視覚処理の多くの基本構成要素を解体するばかりか、ボトムアップ処理が依拠している前提のいくつかを無効化する。私たちは抽象画をじっくり眺めて、線分のつながりや識別可能な輪郭や物体を探そうとする。


むずかしいですね。ちゃんとした内容は本の中にたくさん書かれていますので、興味のある人は本を読んでみてください。
わたしがこの本を読んで雑に認識したこととしては「抽象画は見ている人に描かれていない部分を考えさせる、だから強く感情を動かされる」です。

そしてこれが小説に戻って、使えるのではないかというのが「三人称壁視点」としての仮説です。つまり「感情が書かれていないからこそ、読んだ人が感情を考えることになり、強く印象に残る」説となります。

これが正しいのかはわかりません。普通に書いてあったほうがわかりやすいじゃんというのも理解できます。ただ意図としてはそういうことというわけです。


2. 壁というカメラを通してキャラクターを見る
では、実際に「三人称壁視点」として書いていくときにどう書けばいいのかということに疑問が浮かびます。これはどこまでやるかという問題なのですが、例をあげて見てみましょう。

 ゼラが押さえた手で、三度、目を揉む。
 手を離し、目を開けて、息を吐き、ゆっくりと口角をあげていく。
 一度、振り返って図書館を見る。
 建物がぼんやりと光りに包まれている。
 ゼラが視線を切って、前に向き直す。
 顔をあげて、坂を下っていった。

これは三人称壁視点を最初に意識して悩みながら書いた『夕日の音を知っていますか? 夜の青さを認識しました』からの抜粋です。当然、モノローグは書いてません。普段の三人称であればここで、ゼラというキャラが何を思っていたかを書いたりしますが、今回はそれを書かないようにしています。あとは「ゼラは〜」ではなく、「ゼラが〜」なのも視点の主がゼラではなく壁(屋外ですけど)にあるという意識からです。

さらにもうひとつあります。「ゆっくりと口角をあげていく」の部分です。これがどういう動作かわかりますでしょうか? 口の端が上に持ち上がるということです。つまり「笑み」です。この小説では強く「三人称壁視点」を意識したので、可能な限り視点から思考を除外しました。

たとえば映画の撮影などを思い浮かべてください。役者さんが笑顔を作ってそれをカメラが撮影します。そうしてできた映像に「笑顔」の文字は表示されたりはしません。いま、映ってる俳優の注意書きに「今、笑顔だよ」とか書いてません。カメラは笑顔の状態の表情の役者を撮影するだけです。見る人は笑顔の表情を見て、「笑っている」と認識するのです。

小説に戻りましょう。
「ゆっくりと口角をあげていく」です。もし普段の三人称視点などで書くなら「ゆっくりと笑みを浮かべた」とか書きます。でも、ここでわたしは悩みました。「笑みを浮かべる」というのは、誰の思考か? これはカメラが意識を持って、「笑ってる」と考えてしまっているのではないか? そしてそれを読む人に伝えてしまっている、悪く言えば押し付けて、考える場所を削ってしまっている、そう思いました。これは映画で笑顔の俳優の場面に「笑顔」と文字で書いてあるようなものです。映画だったら興ざめです。下手な俳優が笑顔を演じられないので「※笑顔です」と書いてあればわかりやすいですが、それよりも文字でなく役者の演技で「笑っている」と感じたいものです。

そんなことを考えて、この小説からは普段書くような「〜は笑った」などの表現は全部削りました。セリフとして「笑ったね」などは残っていますが地の文からは全部削って「口角をあげた」など表情などの物理現象に変えました。これはもちろん「笑い」だけではありません。しかしどこまでやるかがむずかしいです。

これを突き詰めると「歩く」ことすらできません。「右足を出した」、「左足を出した」で書いていくとさすがに死んでしまいます。なのでこれぐらいの塩梅かなというものを判断して主に感情面のところを隠蔽するような意識でやっていきました。

これ、本当に意味あるのか? めっちゃわかりにくくないか? とかは思います。あと語彙がなかったり表現が追いつかなかったり、自らの能力の及ばなさも痛感します。

3. 考え中の懸念とか
「三人称壁視点」ではここまで書いてきたように、視点は壁(カメラ)に徹し、意識は読者の頭の中で発生するというような形を目指します。
そうすると匂いの描写はどうしようかという問題が出てきます。小説は映像や漫画などのメディアに比べてわりと匂いを描写しやすいメディアではないかと個人的に感じています。ですがそれはだいたいモノローグで「鼻腔をくすぐる」など書かれるもので、モノローグを書かない場合は書けなくなります。全部セリフに書けばいけますが、あまり匂いのことを口にするキャラはどうかという気もします(鬼滅の刃のようにそれがキャラの特徴ならいいですが)。
同じく、モノローグが減るのでセリフでカバーしなければいけない領域が増えそうです。さらに感情を具体的に認識できるような地の文も減らしたいので書くときの苦悩がもっと増えます。簡単に逃げようとすると今度は説明ゼリフが増えて興ざめというパターンになりそうです。この辺りをどうするのかはなかなかむずかしそうですが、やはりできる限りはキャラの動作の描写でカバーを意識するしかないのでしょう。
映画『リズと青い鳥』は上述の通り、モノローグがありませんが、キャラの表情はわりとわかりやすく変化しているように思います。たとえばパンフレットを渡すシーンなどがわかりやすいですが、最初は明るい雰囲気の表情だったのが、パンフレットを受け取ってカメラが切り替わると目が髪に隠れて影ができたりしていました。どこまでわかりやすくしていいかというのは考える必要のあるところですが、絵という非言語で空気の切り替えを表現すれば、その不穏さは見ている人の頭の中で展開されて言葉に変換されるのかもしれません。じゃあ、もとから言語しかない小説ではどうすればいいのか、というのはなかなかいい答えが思い浮かびません。
一応、思い浮かぶのがよくあるものでキャラクターの心情に合わせて背景の天気が変わったりする表現ですが、個人的にあまりあれが好きではなく……(効果は理解できても自然を捻じ曲げてる感じがあり……)。

4. まとめ
というわけで突き詰めると、やはり目指すべきはキャラクターの動作の描写にたどり着き、それをうざくない程度に分解し、うまく伝わるように表現し、書くようにするしかないのかなと思います。
理想は『リズと青い鳥』のフルート反射光のシーンでしょうか。モノローグどころかセリフもありません。音楽とキャラクターの動きと表情、カメラワークだけです。なのに泣けます。
あんなシーンと同じような効果を文字で表現できたらいいですね!
どうやったらできるのかまったくわかりませんが!

以下が今回書いた「三人称壁視点」を考えながら書いた作品です。読んでみると苦悩の片鱗や効果のありなしを味わえるかもしれません。興味がありましたらどうぞ。

・『夕日の音を知っていますか? 夜の青さを認識しました』:70000文字ぐらいの中編です。最初にこの視点をかなり強めに意識して書いたものです。
・『わたちたちは常に異なっている』の『わたしはあなたに興味がない(pixivでも読めます)』:14000字ぐらいの短編です。2回めだったので少しゆるくしたり、意識的に1箇所でルールを破ったりもしました。

今のところはこの2作品です。レベル感を少し変えてみたりしたので比べて見てもおもしろいかもしれません(他のよくある三人称視点の作品とも比べてみたりも)。
中編、短編と来たので、次はそろそろ長編でもやってみたいなあとも思います。今回書いた内容も絶対こうするというわけではなく、まだまだ試行錯誤の過程であり、試したりわざとゆるくしたり、きつくしたり、まったく新しい概念を入れてみたりもするでしょう。すべては実験です。

そろそろ何を書いているのかがよくわからなくなってきたので終わりにしたいと思います。
みなさんもぜひ「三人称壁視点」にチャレンジして、この苦悩を味わいましょう!

ではでは