にゃにゃ。

上橋菜穂子先生の『物語ること、生きること』を読んだら素晴らしかったのでブログ書きます。本の感想文ってブログっぽいね! これからもビビっときたものがあったら、商業・個人、紙・電子、小説・漫画・エッセイにかかわらず書きたいなと重い腰をあげてやっと思ってきたのでビビらせてください。今まで読んだものにもいいものはたくさんありましたが過去を振り返るのがめんどくさいので今からスタートです!

ということで本日のご紹介は上橋菜穂子先生の『物語ること、生きること』です。
 

上橋先生は『獣の奏者』や守り人シリーズの著者です。わたしは『獣の奏者』が大好きで、さらにイラストの武本糸会先生の絵も大好きなのでハードカバーに青い鳥版に漫画版にとたくさん買いました。武本先生のサイン会に行って、もふもふのリランとエリンとユーヤンを描いてもらってヒャッハーしたこともあります。



そんな愛してやまない本の著者である上橋先生が「どうやったら作家になれますか」「『獣の奏者』や『精霊の守り人』みたいな話は、どうやって生まれてくるんですか」という質問に答えるために、上橋先生がたどってきた体験や生き方などが書かれているのが本著です。どんな風に感想を書いていいか悩むので以下は適宜引用していきます。

どちらか一方の側から見ただけでは、見えない景色があるのです。
境界線の上に立つ人は、それを見ているのだと思います。
だからとても孤独だし、人から理解してもらえないこともあると思います。結論めいたことを言うこともできずに、それでもじっと考えつづけ、沈黙しているかもしれない。
私は、そういう人に惹かれるし、そういう人の見ているまなざしが見ているものを、自分も見てみたいと思うのです。 

上橋先生の小説から感じられるリアリティはこういったところから来ているのだろうと思いました。世界にさまざまな国があり、それぞれがそれぞれに思惑を持っている。なんでこんなにいろいろなキャラクターが生きているように思えるのか、それはどこか一方のみを正義とせず、境界線の上から、それぞれが大切に思っていることを大事に書いているからなのかなと。

私の学部のときの卒論のテーマは、お産についてでした。世界じゅう、さまざまなところで、お産を血の穢れとする考えかたがあって、命を生み出す大切なものなのに、なぜだろう不思議に思っていたからです。

ここは読んでいて単純に興味深い場所でした。その理由について後述されていましたが、昔はお産や生理の際に女性は「他火小屋」と呼ばれる場所にいかなければならなかったそうです。そこは血の穢れの場所として恐れられたとともに、様々な年代の女性が集まるため知識が得られたり、身体が辛いときに休むことができたなどのメリットもあったそうです。学校教育や男女の平等、迷信の排除などによって失われてきた風習なのでしょうが、良い点があったからこそこのような迷信が発生したのかもしれません。失われないほうがよかった、近代の問題点だ、とは思いませんが、それがあったことと失った今の違いは大変おもしろく感じます。

上橋先生は文化人類学者でオーストラリアの先住民アボリジニについて研究されています。そんな先生の実際の体験もとてもおもしろいものでした。ある小学校ではアボリジニと白人の子どもがともに同じ小学校に通っているそうです。ぱっとみでは区別などできないらしく、まずここで、そうなのかーと衝撃を受けて頭の中に浮かべる原住民的なイメージがなくなりました。

その小学校の先生方に尋ねるとカンニングするのはアボリジニの子が多いそうです。そこで人種差別や偏見ではないかと、子どもたちに聞いたところ、以下の様になったとのことでした。

「ねえ、テストのとき、カンニングしたりすることある?」とアボリジニの子どもらに聞いてみると、彼らは、あっさり、あるよ、と笑うではありませんか。
「俺は解答がわかった。でも隣に座っているいとこはわからなかった。シェアしなければ、欲張りなやなやつじゃん。」 

おう、まじか、という感想です。アボリジニの人たちは、私のものはあなたのもの、あなたのものは私のものというような「ケアリング&シェアリング」という考え方をするそうです。このカンニングについてもどうやらそんな話なようでした(笑)
他にもレストランとコテージのついたガソリンスタンドに毎日たたずんでいるアボリジニの家族の話など、日本人の感覚からすると衝撃をうけることがいろいろ書かれています。

よくフィクションを書く・描く際には「経験」が大事なのかどうなのかという問題が語られます。恋愛経験が薄いのに恋愛の話を書いてリアリティがある? じゃあミステリー作家はみんな人殺しなの? でも、人殺したらもっとすごいミステリーが書けるかも? そんな答えのでない問答はよくあるのではと思います。そこについて、こんな風に書かれていました。
経験は大切です。でも、べつに、人と違うことをたくさんしなければいけないということではなく、むしろ、人と同じことをしていながら、そこに人とは違うものを感じ取ることのほうが大切だと思います。

結局は、得た経験から何を出すのかということなのかもしれません。


「どんな気持ちがしますか」と聞かれて「悲しい」と答えたときに、たぶん誰もが「でも、そのひと言では伝えられないな」と思うはずです。
物語を書くことは、そのひと言では言えなかったこと、うまく言葉にできなくて、捨ててしまったことを、全部、ひとつひとつ拾い集めて、本当に伝えたかったのはこういうことなのだと、伝えることなのだと思います。 

これはとてもわかります。同じではないでしょうが、わたしの場合、毎日、Twitterなんかを見て、ニュースに対して短い言葉をつぶやいたりしています。生きていて何かふと思ったりします。そのときはそれで終わりですが、それだけでは思いが終わらなかったものなんかを小説に書いたりすることが多いです。

他にも引用したいところなどは多いのですが、全部引用すると著作権法違反とかになってしまうのでやめておきます! ちなみにTwitterアカウントをフォローして頂いている方はご存じだと思いますが、わたしは電子の本を読むとTwitter上に気に入った言葉の引用(認められている範囲で)や思ったことをシェアしまくる癖があります。実はこれは紙の本を読んだとき気に入った言葉があるとページの端を折る癖から来ているのですが(この癖は大好きな森博嗣先生のマネです! でももう習慣になりました!)今回、この本の結果はこのようになりました。

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森先生の本だとこのくらいになるのは普通ですが、その他の本でここまでになるのはあまり記憶にありません。この折ってあるところが引用したいと思うようなところです。

というわけで伝えきれなかったとは思いますが、この本はとても素晴らしいものです。創作にたずさわる方は是非、読みましょう! 読んで損なんてしません!

創作にたずさわっていない方でも楽しめることは確かですが、この引用を使わせてもらって終わりにしたいと思います。

物語にしないと、とても伝えきれないものを、人は、それぞれに抱えている。

読みましょう! 物語りましょう!

ではでは。